あのときは、確かに生きたいと思った。
死にたくないと。 そう思ったはずなのだ。 だが生き残った先にあったのは、留まることなど知らぬ死の連続と、そのたびに脳裏をちらつく夕焼色の髪と、金の眼、甘い声。そして死にたくないと醜く足掻いた自分。 嫌悪ではない。これは、憎悪だ。 彼女は俺に何を教えたかったのだろう。 消えるべきはどちらだったのだろう。 傷が痛む。左目に残る彼女の爪痕。腹を刺す彼女の幻影。 ──いっそ、 「起きた?」 かけられた明るい声に、熱を持った思考が焼き切れた。 心臓の拍動が早鐘を打つ。ひりつくように咽喉が嗄れていた。じっとりと厭な汗が手ににじむ。見透かされたような気がして、月詩はその声を無視した。下らない問いかけをした奴は、気付いているのかいないのか、一方的な会話を続けている。 「安静にしてればもうすぐ起きられると思うよ」 「林檎むいたんだ。食べる?」 「包帯もとりかえないとね」 ひどく、凶暴な気分だ。暴走しかけた意識の余韻か、傷の熱が残っているだけなのかもしれない。 だから、熱を測ろうと額に触れてきた冷たい手を、手荒く振り払った。 「……猫」 言葉に、ラジウムは首をかしげる。なあに、と赤い眼を瞬かせるのを見て、月詩の中で憤りとある種の確信が高まる。 「持っていないのだと、聞いた」 何をとラジウムが口を開くよりも先に、月詩は続けた。 「非情の心」 噂に聞いたことがあるくらいだ。証を持っていないアサシンの話。 ラジウムは、小さく溜め息をついただけだった。 「噂でしょ」 「ならば、貴様の証を見せてみろ」 下らないとわかっていた。あきれたような返答も態度も予想くらいできた。逢ったときから、わかっていた。 だからこそ、我慢、ならない。 「貴様のような輩が、アサシンを名乗るなど、俺は、認めない」 証も持たず、忠誠も誓わず。しあわせそうに。 大事なものを、失くしてもいない、癖に。 ひどく、凶暴な気分だ。貴様も同じように苦しめばいいのに。 「殺して、やろうか。──貴様の、仲間とやら、を」 掠れた声。ラジウムのあきれた表情は崩れない。片手の果物ナイフを手持ち無沙汰、茶色く変色してしまった林檎に突き立てて、呟く声。 「本気で、云ってるの?」 どうでもよさそうなその声に、一瞬返事を忘れた。 「なら、しょうがないね」 言葉と衝撃は同時だった。 自分でもどう動いたのか、よく覚えていない。かろうじて見えたのは、銀色の刃から床に向かって落下してゆく、茶色い林檎。 転がり落ちるようにして離れた寝台を振り返る。自分の代わりに乗っているのは、赤毛の、小柄な獣だった。 人間の姿をしているはずなのに、その姿は、肉食のそれによく似ていた。 右手に握っているのは果物ナイフだ。大して切れ味もよくないそれは、ついさっきまで自分の咽喉があった部分を、鮮やかに切り裂いていた。 状況を把握すると、簡易催眠では消しきれない痛覚が腹を冒しだした。まだ、傷は開いていない。自分の両足で立つということが、随分久しいような錯覚にすらとらわれる。 裂かれた布から綿が舞い上がる。白の中に、赤い眼がぎらついた。ゆっくりと月詩を捉えるその赤と、昔見た、ヒュイの影が重なった。 「死にたいんでしょ?」 猫が、音もなく寝台から飛び降りる。痛みに呼吸を詰まらせながら、月詩は、暗く笑った。 二秒で決着のつく命なら、無くても同じだとラジウムは思う。 細い身体に些か大きな部屋着の内側で、常人からは信じられないくらいの力がラジウムの脚に込められ、 「何やってんだ、お前ら」 それは、放たれることはなかった。耳慣れた響きの、低い声。 「あ、リリィ」 小さな扉を窮屈そうにくぐる相棒を見やるその眼は、さきほどの獣を思わせるぎらつきなど欠片も残していなくて。人を殺すときの持ち方で果物ナイフを握ったまま、ラジウムは無造作にリリィに近づいた。扉近くに飛びのいた月詩を素通りする。抜き身の刃が洋灯の明かりを跳ね返すたび、月詩の肩が揺れた。 ラジウムより頭一つも高い黒髪の相棒は、近づいてきた赤毛と見慣れぬ銀髪の青年を交互に見やって、ラジウムの頭を軽く小突いた。 「自分で助けといて、アホかお前」 「だって。リリィたちのこと、殺すって云うんだもん」 「バカか。そう簡単に死ぬかよ」 「ぼうっとしてると、寝首かかれるよ」 仲間同士の、何気ないやり取りだった。月詩は、ただそれを見ていた。 仲間など居なかった。たった一つ見つけたものさえ、大事にすることすら、叶わなかった。 今更、ヒュイの云ったことの意味に気付く。月詩の持っていないものを、ラジウムは凡て持っていたから。 リリィは、ラジウムを呼びにきたらしかった。一言二言交わして、先に部屋を出ていく。すぐに行くよと背中に声をかけて、ラジウムが肩越しに月詩を振り返った。 「あんた、花唄に育てられたんでしょ」 何気ない一声に、月詩がはじかれたように顔を上げる。誰もが忘れていく名前。自分が死ぬまで背負って生きていく名前。 なぜこの男がそれを知っているのか、そんなことは問題ではなくて。 「おれは、腕の悪いアサシンだよ」 折りたたみの果物ナイフをポケットに突っ込んで。 「ギルドを敵に回しても、怖くないんだもの」 踵を返す肩の上、短く結った赤髪が揺れる。 「ねえ、向いてないんじゃない?」 声は、閉じた扉の向こうから聞こえた。 装束は、血を落として枕元に置いてあった。 包帯をきつく締める。何事もなかったかのように装束を身に着けて。 沙漠など比べ物にならない、暖かい夜。猫の爪のような三日月が黒い空に浮かぶ。 床に落ちた茶色い林檎が目についた。振り払うようにして、窓辺へ。 闇に身を躍らせる。ともすればまろびそうになる足元。 傷など痛くなかった。ただ、ここに居たくなかった。 弱くなるのが怖くて、凡てを持っているあの男が、憎くて。 あんなにも、あんなにも。 アサシンの、癖に。 【腕のいいアサシンと悪いアサシンの違い】05.0525.23:33 しょ、消化不良…。 ラジウムは腕の悪いアサシンです。全部持ってるから。
by shelldoney
| 2005-05-25 23:39
| 小説「出会い系」:完結済
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