夕刻、身支度を整えたラジウムが階段を下りていくと、カウンタの隅に疲れた顔の相棒を見つけた。
首都近くの衛星都市ならでは、冒険者を主な客とする安さだけが自慢の宿は、大抵が一階部分を酒場として使っている。ラジウムたちの定宿もその一つで、店内は荒くれ者でごったがえしていた。 するりと合間を縫って近づく。隣のスツールにちょこんと腰かけると、ぷんと酒臭い。どうやらもう相当空けている。 「出かけんのか」 ラジウムの格好を見たリリィがほろ酔いの赤ら顔で問うた。装束に身を固め、上衣を羽織ったその姿は、どこから見ても旅支度だ。 「尻拭いにね」 短く云った。詳しくは語らなかったが、リリィにはそれで充分だったようだ。伊達に相棒はしていないということか。脇に置いた布包みを差し出してきた。小首を傾げたラジウムが受け取って中身を確かめる。出てきたのは屋敷に置いてきた自分の短剣だった。赤い目が輝く。 「ありがと。……もう一本なかった?」 月詩のものだ。リリィが自分のものだけを見分けられるとは思えない。リリィは杯に残った酒をぐいと呷って、酒臭い息を吐いた。 「やっこさんが持ってったぜ」 奴さん、というのはあの女騎士のことだろう。ふうんと気がなさげに返事をして、ラジウムは遠くを見ている。 「リリィの仕事はもうおしまいだよね?」 唐突に訊いた。肯定の返答をもらうと、猫の赤い目がゆっくりと相棒で焦点を結んだ。 床に足の届かないスツールから軽く跳ねるように下りると、ラジウムは短剣を腰裏の空鞘に収めた。 「よかった。おれも選ぶ羽目になるところだったから」 リリィが怪訝そうな顔になる。酔った頭ではそう考えが回らないらしい。黒い目ににじむ疑問に答えず、ラジウムは扉へ踵を向けた。 「行ってくるね」 声をかける間もなく、細身は人ごみにまぎれる。 そうしてすぐに、喧騒がその残り香を消し去った。 ヒュイは与えられた一室で書類の整理に追われていた。とはいってもその目は文字の上を流れているだけで、内容を読み解いてはいない。どうせ確認するまでもないものだし、何より別に暇つぶしができた。 「何しに来た?」 「報告書の提出」 虚空に投げ出した言葉に返事があった。柱の影の暗がりから、赤毛が覘く。 ラジウムは無造作に明るみに出て、ヒュイの机に近づいた。他の書類の上から構わず『報告書』を置く。布越しに赤が染み出して、羊皮紙を汚した。ヒュイは一つ鼻を鳴らしただけで応え、傍らの革袋を投げてよこした。 さして重さはない。慣れた者なら一人で充分な仕事。 「まだやってるの?」 「どこぞの猫が邪魔してくれたおかげでな」 「冗談」 云ってラジウムは肩をすくめる。下手な嘘。邪魔したいのは書類整理なんかじゃなくて、きっとヒュイだってわかっているはずなのに。 血の染みが羊皮紙全体に広がって、木の机を黒く濡らしている。狭くない部屋を満たしてゆく鉄の匂い。天窓の向こうは暗く沈んだ星のない夜。洋灯のきつい陰影。 「いつまで、続けるつもり?」 何でもないような声をして、ラジウムの赤い目は幾分か細まっているように見えた。ヒュイの灰色のそれを見る。はぐらかすなんて赦さない。 先に折れたのはヒュイだった。何なりと云って黙らせるのはたやすい。相手が誰であろうと、ヒュイが弱味を見せることなどない。ラジウムが何の力も無いことを知って、そうして望んだ真実を与えてやる。何も変わらない、事実を告げる。 サドめ。小さく毒づくラジウムの口唇に暗い笑みがにじむ。 「永遠にだ」 ダガーが飛んでくるのは、予想できた。 受け止めた指が少し切れたのは、刃の軌道が予想よりもわずかに乱れていたからだ。投げ捨てたダガーは、石の床で軽い音を立てた。 わざとらしく、椅子に座ったままで、ヒュイはラジウムを睥睨する。 「誰がお前に凡てを教えたと思ってる?」 わかっていて、それでも投げた。そういう顔だった。 「育ててやった恩を忘れたか?」 「忘れないよ。でも、これは別」 ラジウムは机のすぐ前に立っている。痩せて尖った肩が少し揺れている。 命を大事にしろと云うのではない。尊さを主張するのではない。ただ、赦せないだけ。 アサシンは望んでなる職業ではない。皆何かと引き換えに、何かを引きずって、その装束をまとう。ただ闘うだけならばまだいい。アサシンギルドのもう一つの顔は。 桁違いの制約とリスクを負う彼らは、皆証を持っている。本当の意味でのアサシンのしるし。人を殺める腕を持つ者の烙印。ギルドへの忠誠の証。身も心も道具として生きる者の証。非情の心。 それを手に入れるため、一つの試練が課せられる。 内容は簡単だ。ただ、生き残ればいい。 新人に技術を教えるのは、任務に失敗したアサシンであることが多かった。心に身体に傷を負い、前線を退きながら、道具として生きる彼らには焦がれるほど還りたい場所へ戻れる唯一の道。 その上を行くことができたなら、新人はギルドに迎えられ、新たなアサシンとして名を連ねることになる。 生き残るということは、相手を殺すということだ。 ラジウムは、証を持っていない。必要なかったのだ。何事にもイレギュラーというのは存在する。 だが、あくまでそれは例外であり、アサシンギルドの常識は血塗れた赤い手の連鎖にある。 おこがましいと云うだろう。証も持たず、忠誠も誓わず、ただ生業としてアサシンを名乗るなど。 月詩は、死ぬほどそれを嫌うだろう。自らの手を染め、証を手に入れたアサシンは。 「あのこ、うちで引き取るよ」 「無駄だ。あれはここ以外属せん」 「抜き打ちテストに不合格の出来損ないが、ギルドの役に立つって云うの?」 月詩は気付いたろうか。自分が試されたことに。 悪趣味だと、ラジウムは思う。一人で充分な仕事に同行させたのは、そういうこと。監視だったら別に自分でなくてもよかった。ラジウムがその制度を嫌っているとわかった上で。 出来損ないなんて嘘。アサシンとして優秀である必要などない。たとえ本人がそう望んでいなくても。 ラジウムは机に手をついて、ヒュイのほうへ身を乗り出す。猫の目はぎらぎらしている。ヒュイは動じない。 「珍しいね、人選ミス?」 そう云って、わらう。明らかな挑発。 「ねえ、ゲームしよっか」 息がかかる距離。瞳孔の細い、赤い瞳。 「誰が一番悪いのか当てるゲーム」 瞬間、ラジウムは後ろに飛びのいた。笑いながら首を押さえる。ぬるりと生ぬるい血が触れた。 後ろのレンガ壁に、ダガーが刺さっている。さっきラジウムが投げ、床に落ちたそれだ。ヒュイが舌打ちをした。急所を狙って投げた。誰かに刺されて死ねばいいのに。 ステップを踏むように数歩さがり、ラジウムは壁からダガーを抜いた。手の中でもてあそびながら、小首を傾げてわらう。 「本気にした?」 ダガーは腰裏に消えた。いつも通りの軽い声で。 猫は踵を向ける。足音を残さず、匂いも残さず。 「つまんないの」 短い言葉だけを落として、細い姿は同じよう細い通路に消えた。その背を一瞥し、もう一度ヒュイは鼻を鳴らした。 書類が台無しだ。処理もしないで持ってきて、こちらの手間も考えろというもの。 椅子に凭れて、指を見る。ぱっくりと割れた皮膚の下から赤い血と白い肉が見えた。鼻が麻痺して鉄の匂いがわからない。平和ボケしたなとつぶやく。 甘く快適な湯船に、慣れてしまったのだと思う。 あの猫は、それを知っていた。 あの猫は、だから怒っていた。 見上げた天窓の向こうは、青みがかっている。 ヒュイは細い目を眇めて、吐き捨てた。 「化け猫め」 【親子喧嘩】050422.PM4:10 がっつり間空いた…。 物騒な親子喧嘩です。血繋がってるわけないけどさ。
by shelldoney
| 2005-04-22 16:15
| 小説「出会い系」:完結済
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